★【東日本大震災から半年】:被災地の本当の話を知ろう!!
2011年 08月 27日


被災地の本当の話を知るべし!
陸前高田市長が見た「規制」
という名のバカの壁とは?
2011.8.26
cyzo
東北地方に甚大な被害を与えた東日本大震災。発生から半年近い年月がたとうとしている今も、復興のめどは見えてこない。死者・行方不明者2,000人以上の被害を出した陸前高田市でも、がれきの撤去にはまだ数年を要するとさえ言われている。同市の戸羽太市長は、著書『被災地の本当の話をしよう -陸前高田市長が綴るあの日とこれから-』(ワニブックス)の中で、復興を阻害するさまざまな法規制の存在を冷静な視点で記している。被災地の復興をことごとく阻む壁の正体とは何なのか。これまで報道されてこなかった被災地の現実について、戸羽市長に語ってもらった。
(聞き手=浮島さとし/フリーライター)

戸羽市長(以下、戸羽):その繰り返しに尽きますね。たとえば、がれきの処理というのは復興へ向けた最重要課題のひとつなわけですが、現行の処理場のキャパシティー(受け入れ能力)を考えれば、すべてのがれきが片付くまでに3年はかかると言われています。そこで、陸前高田市内にがれき処理専門のプラントを作れば、自分たちの判断で今の何倍ものスピードで処理ができると考え、そのことを県に相談したら、門前払いのような形で断られました。

戸羽:現行法に従うといろいろな手続きが必要になり、仮に許可が出ても建設までに2年はかかると言うんです。ただ、それは平時での話であって、今は緊急事態なんですね。こんな時にも手続きが一番大事なのかと。こちらも知り合いの代議士に相談をし、国会で質問をしてもらったのですが、当時の環境相も「確かに必要だ」と答弁してくれた。さぁ、これで進むかと思うと、まったく動かない。環境省は「県から聞いていない」と言い、県は「うちは伝えたけど国がウンと言わない」と言う。そんな無駄なやりとりを繰り返すうちに1カ月、2カ月が過ぎてしまう。ですから、どこが何をするかという基本的なことが、この国は全然決まっていないんですよ。

戸羽:そうなんです。がれき処理に限らないことですが、プランを練り上げて持って行って「ダメ」と言われたら、我々は振り出しに戻るしかない。せめて「この部分は方法論として無理だけど、代わりにこうしたら目的は果たせますよ」と、解決の道を一緒に模索してくれたら、あっという間に決まるんです。よく国会議員の方々は「未曾有の国難」とか「千年に1度の災害」とか口にされていますが、であるなら、千年に1度の規制緩和をしてくれと、未曾有の国難に対応できる法律を早く作ってくれと、3月11日からずっとそれを言い続けてきてるわけです。

戸羽:あれはOKが出るまでに4カ月かかりました。津波で流された量販店さんが、プレハブの仮設店舗で営業を再開してくれると言ってくれまして、食料が枯渇していた時期でしたから、市としても大変ありがたいと。そこで民間の方の農地を借りてスタートしようとなったら、国から「待った」がかかった。その土地は中山間(地域等)直接支払制度が適用された農業振興地域の農地だからダメだ、と言うわけです。ようするに、補助事業で整備した農地なのだから、どうしても店を作りたいなら補助金を返還しろと。しかも農地転用にも時間がかかると。

戸羽:ふざけるなと言いたいわけですよ。食料の調達は死活問題ですよと、あくまで緊急の仮設の店舗なんですと、いくら言っても「絶対にダメ」としか言わない。それを新聞やテレビで私が言い続けているうちに世論が動き始めて、県を批判する声が高まると、ようやく4カ月たって規制を緩和してもらった。

戸羽:残念ながらそれが現実です。被災地が生死の境目で声を上げ続け、やっと4カ月たって動く。じゃ、あなたが4カ月前に「絶対にダメだ」と言って守っていたものは何だったのと。許可が出てうれしいというより、逆にガックリきちゃうんですよね。だからよく「一喜一憂」と言いますけど、実感としては「一喜三憂」くらいの印象ですね。

戸羽:あれも本当に......。被災直後はとにかくガソリンがなくて、内閣府の東(祥三)副大臣が来られたときに相談したら、彼は行動派ですぐに担当省庁に電話してくれまして、ガソリンがドラム缶で届くことになったんです。その後、自衛隊の連隊長と私と東副大臣で現地を車で回った時に、あまりに壮絶な現場を見た副大臣は「作業も相当危険なものになる」と心配されたんですが、連隊長に「われわれがやりますから大丈夫です」と力強く言っていただき、本当にありがたいと思いまして、話はまとまったわけです。

戸羽:そうなんです。それで「副大臣の配慮で明日にもガソリンが届きますから」と連隊長にお話ししたんですが、その日の夜に担当省庁から連絡が入り、ガソリンは送るけど自衛隊にノズルを触らせるなと言うんですよ。
――何が問題だと言うんですか。この期に及んで危険物取扱資格のことですか。
戸羽 表向きはそうなんでしょうが、簡単に言えば縦割りですよね。自衛隊は防衛省からガソリン送ってもらえ、ということでしょう。そんなこと言ってる場合じゃないんですよ。あの頃はまだ、今生きている人が明日死ぬかもしれないという極限状態で、そこを自衛隊が体を張って助けてくれると言ってくれた。やっとガソリンも届く。そう喜んでたら、その言葉ですからね。担当省庁が言うには、空になったドラム缶を自衛官が片付けるために転がすのはいいけど、ノズルで給油するのはまかりならんと。もう、あきれましたね。仕方なく、危険物取扱資格を持っている方を急きょ探したりと、もう考えられないことがたくさんありましたよ。

戸羽:そういう方はかなりいました。職員から「○○さんという代議士が見えています」と言われて行ってみると、初めてお会いする方が「市長、一緒に写真を撮ってくれ」と。私とのツーショット撮影が終わったら「よし行くぞ」と帰ってしまった。被災地の現状なんて何にも聞かない。資料一枚持っていかない。中には、破壊された庁舎の前でVサインして記念撮影して帰られた東北出身の議員さんもおられますよ。

戸羽:もちろん、一所懸命な代議士さんもおられますし、フレキシブルに対応していただいた省庁もあります。東北地方整備局(国土交通省の出先機関)の整備局長さんからは、「(大畠国土交通)大臣から何でも対応しろと言われていますから、要望を言ってください」と言っていただき、「本当に何でもいいですか、国交省の業務と関連性がないことなんですが」と聞くと「大丈夫です」と。

戸羽:その時は棺桶をお願いしたんです。当時はご遺体が学校の体育館に満杯の状態でして。棺桶なんて全然ないので、火葬の際にベニヤの上にご遺体を寝かせ、段ボールで囲むというような状態でした。ご遺族も辛かったろうと思います(編注:戸羽市長も震災で奥様を亡くされている)。

戸羽:すぐにしてくれましたね。本当にありがたかったです。ですから、すべての議員さんや関係機関をどうこう言うつもりはないんです。ただ、あまりにひどい話が多過ぎるというのも事実なんです。私がこういった批判的な意見を言うと新聞に出ますよね。そうすると記事のコピー持って県の人間が飛んでくるんです。こんなこと言っちゃ困ると。でも、残念なことに言わないと何も変わらないんですよね。

戸羽:もちろん8年で完全に復興するなんて思ってません。とにかく家や職場、交通網がある程度回復し、なんとか普通には住めるという次元までに8年というのが目標です。早いもので、震災からもうすぐ半年がたちますが、がれきがほんの少し減っただけで、事態は何も変わっていないんです。そのことを皆さんに知っていただきたい。これから徐々に報道も減ってくると思いますが、被災地の存在をどうか忘れずに、これからも見守っていただきたいというのが私たちの強い思いです。

戸羽 太
(とば・ふとし)
1965年、神奈川県生まれ。東京都町田市育ち。1995年から陸前高田市議を務め、07年に助役に就任。11年2月の市長選に初出馬、初当選を果たす。市長就任の直後に東日本大震災が発生。陸前高田市は甚大な津波被害を受けた。

いまだ埋まらぬ
「メジャー被災地」と
「マイナー被災地」の格差
2011.8.26
cyzo
東日本大震災から5カ月が経過した被災地では数々のイベントが開催され、注目が集まっている。中でも、"メジャー被災地"としてその名を全国に知られるようになったのが、宮城県石巻市だ。この夏はディズニーパレードなど、地元自治体以外も協力した大きなイベントも企画された。
このような復興関連のニュース以外でも、震災発生直後から「石巻」という言葉を見聞きすることが多かったのではないだろうか。これまで渡哲也や舘ひろしをはじめとする石原軍団など、多くの芸能人が慰問のために石巻を訪れたと報道されている。なぜマスコミ出現率、つまり著名人の訪問率が高いのだろうか。その最大の理由は交通の利便性にある。
仙台から石巻は、主要幹線道路を走れば1時間以内の距離だ。震災発生後も比較的入りやすいエリアであったため早くからマスコミに取り上げられ、メジャー被災地となった。
このような被災地は他にもある。たとえば釜石、陸前高田、気仙沼、南三陸、南相馬などは震災後に知名度が全国区になっている。こうしたメジャー化した被災地では、救助や支援の車両を通すために道路が整備され、移動ルートが確保されたためにスムーズな移動が可能となり、早くからボランティアや支援を受け入れる土壌ができ上がっていた。
そのため石巻市には、多くの芸能人たちが支援に訪れることができた。被害の大きな石巻に東京から日帰りで往復できるとなれば、現実的な選択肢となるのだろう。もちろん、何らかの形で復興を支援したいという芸能人たちの気持ちは本物であろうが、芸能人のスケジュールと被災地への移動時間を考えて妥協点となっていたことも否定できない。
一方で、芸能人のボランティア活動は地元の人にはどのように映っているのだろうか。石巻市に暮らす30代の男性は次のように語る。「芸能人の慰問って言っても、避難所とか炊き出しの場所でしょ。すでに自宅で生活を始めている人にとってはあまり関係ないんだよね」
この男性に限らず、芸能人が訪問することに特別な意味を見出していない被災者も少なくない。それでも多くの人たちは「石巻に注目が集まるのはうれしい」と感謝の言葉を口にする。だが、それと同時に、一向に埋まらない復興格差について心配する声も多い。
「石巻が注目されるのはありがたいことだと思っています。でも、せっかく来ていただくならもっとほかの町に行ってもらって、現状をもっと伝えてもらいたいです。こんな言い方をするのも図々しいけど、今は支援を受けないとすべてが回っていかないから」
これは石巻で被災した40代男性のコメントだが、同様の意見は多くの人から聞かれた。この男性はいまだに安定した仕事に就くことができず、最低限の生活費を稼ぐことすら難しいという。避難所から仮設住宅に入ることができても、その先の生活がまったく見えない状況なのだ。
実際、メジャー被災地であってもまだまだ恵まれた状況とは言えない。石巻市内でも、いまだに電気ガス水道などのインフラが十分に整っていないエリアは多い。これはほかのメジャー被災地でも同じことが言える。
こうした現状と今後の動きについて、どのような対策が取られていくのか。多忙な職務の間を縫って被災体験と被災地のこれからについてまとめた『被災地の本当の話をしよう』(ワニブックス)を出版した陸前高田市の戸羽市長は、「周辺の自治体と連携を始めています。とくに環境エネルギー分野では、周辺自治体との連携は不可欠ですね」と、今後の復興プランについて言及している。ゼロになったからこそできることを模索する姿勢は、今後の被災地にとって必要だろう。
だが、戸羽市長は被災地の現状を指して「まだ、何も始まっていない」と言う。瓦礫が回収され仮設住宅が建ち避難所が解体されたが、これではまだ復興に向けて前進したとは言えない。復興格差を埋めるために行政や被災者がどうすべきなのか、いまだ模索中なのが現状なのである。メジャー被災地ですらこの状況なのだから、マイナー被災地は復興へのスタートラインにすら立てていないことになる。
この格差がマスコミにより作られた要素が多少でもあるのだとしたら、いま注目が集まっていないエリアを知らしめるのもマスコミの役割だろう。ジャーナリストの端くれとして活動している筆者としては、そう考えざるを得ない。問題提起すると同時に現状を伝え続けることにこそ、マスコミの役割がある。これは、多くの被災地の人々の願いでもある。
この夏に行われたパレードや各地の祭りなどのイベントだけを注目するのではなく、復興が進む一部の地域といまだ復興の兆しすら見えない地域があり、先の見えない生活、現実的に必要なお金の心配がつきまとって気を抜く間もない人たちがまだ多くいることを知ってもらいたい。そして、私たちにできる復興支援のひとつに「被災地を忘れない」ことがあるのを心に留めておいてもらいたい。

宮城県女川町の女川第一中
2011.8.27
tokyo
岩手、宮城、福島の被災三県では学校給食施設も被害を受け、今も少なくとも計六市町、百以上の公立小中学校で献立の品数不足や民間業者に弁当を外注するなどの状況が続いている。震災から間もなく半年。施設の復旧が進み、被災前と同じ水準の給食再開にこぎ着けた自治体がある一方、いまだ復旧の見通しが立たず、品数が少ない簡易給食から抜け出せない地域が残る。
「おいしかった。おかずが増え、ゆっくり味わって食べました」
夏休みが終わり、授業が始まった二十二日。宮城県女川第一中三年の渡辺佳菜絵(かなえ)さん(14)は、震災前のようなバラエティーに富んだ給食に顔をほころばせた。
女川町のすべての小中学校でこの日、震災前とおかずの数が同じ「完全給食」が始まった。同町では地震で二つある給食調理場の一つが損壊。被害を免れた調理場で給食を賄っていたが、避難所の食事作りも加わり、簡易給食しか作れない状態が続いていた。
この日の完全給食の献立はハンバーグとツナサラダ、チンゲンサイのスープ、パンに牛乳。復旧した調理場の佐々木藍子栄養士(27)は「まだ避難所生活をしている生徒がおり、学校で野菜をしっかり食べてもらいたい」と話した。
岩手県陸前高田市では、高台の給食センターが救援物資の保管場所となり、給食調理ができなかった。このため、内陸部の同県奥州市の業者に市内十五校分の仕出し弁当を頼んでいた。救援物資の保管場所が他に見つかり、給食センターの業務が九月一日から再開できるという。
福島県内では、一部の調理場が被災した、いわき市で一学期に簡易給食と完全給食を週替わりで実施。飯舘村なども一学期は簡易給食だったが、二学期開始に合わせて、ほとんどの学校が被災前の完全給食に戻った。
一方、給食センターが津波で流失した宮城県南三陸町。パンや牛乳、救援物資を給食の代わりにしていたが、今月下旬の二学期から古い給食施設を復活させ、とりあえず汁物の提供を始めた。「栄養の偏りをなくすため具材を増やすなど対応したい」と担当者は話している。

愛知・蒲郡市長
2011.8.27
tokyo
愛知県蒲郡市の金原久雄市長が二十六日の定例記者会見で、東日本大震災で津波被害に遭った三陸海岸について「歴史的に津波被害(の記録)が残っている所に、どうして家を造ったのか不思議だ」と発言した。
被災地では今も多くの住民が避難生活を強いられており、物議を醸しそうだ。
金原市長は会見後、記者団から発言の趣旨を問われ「三陸は歴史的にも被害が散見され、明治、昭和にも津波があった。先人たちも造るなと言ってきたのに、家が立っているほうがおかしい」と繰り返した。
東海、東南海地震で想定される蒲郡市の津波にも触れ「地形的、歴史的にみて、水位は上がることはあっても東日本大震災のような津波は絶対あり得ない」と話した。十一月六日に任期満了の金原市長(三期目)は、今期限りでの引退を表明している。

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