★【追悼】:伊良部秀輝の『遺言』
2011年 07月 31日

"追悼"
伊良部秀輝の
『遺言』
2011.7.30
spa
野球界のみならず、伊良部秀輝さんが亡くなったという知らせは、日本中に衝撃が走った。本誌は、伊良部さんが亡くなる約1か月前、彼が静かに暮らすロサンゼルスにて、4時間にわたり現在の心境を聞いた。謂わば“遺言”ともいえる渾身のインタビューを全文掲載する。この最後となってしまったインタビューは、ジャーナリストの田崎健太氏が行った。
田崎;今でこそ、メジャーリーグで日本人がプレーするのは普通になりました。1997年に伊良部さんが移籍したときは、大騒動になりましたよね。
伊良部: 「伊良部問題(※1)」って当時は言われましたけれど、あれは本当に伊良部の問題だったのかって言いたかったですよ。日米の法律の問題で、パドレスとロッテの問題でした。
田崎;ロッテからパドレスへの権利譲渡(※2) はテレビのニュースで知ったとか。
伊良部:そうです。テレビを見ていたら、パドレスの社長とロッテのオーナーが握手をして、パドレスに行くと話していて、驚きました。
田崎;伊良部さんはヤンキースにしか行きたくない。このトレードは無効だと突っぱねた。新聞の見出しに「ワガママ伊良部」なんていうのもありました。
伊良部:ぼくだって、ルール違反して行きたいとは思っていなかったですよ。その前に、球団はヤンキースに行かせる約束をしていた。それは守られなかったんです。ルール(※3) として、1年間浪人すれば、任意引退選手となって、どこの球団とでも交渉できる。そうしたいと思っただけ。新聞記者の方に、重要なことは曲げないで書いてほしいと、こうした資料はお渡ししました。それなのに……これは手に負えんと思いましたよ。そのとき思ったのが、野球ボールはコントロールできるけれど、メディアはコントロールできない(笑)。
※1 伊良部問題
96年のシーズン終了後の11月、伊良部はメジャーリーグへの移籍を求めて、ロッテのオーナーに直訴。当時、一軍登録から10年でFAの権利を取得できたが、伊良部はこの年で9年目だった。12月にロッテは、メジャー移籍を認める代わりに、チーム選択、年俸交渉を一任する覚書にサインするように強要。これを伊良部と代理人の団野村は拒否した
※2 パドレスへの権利譲
97年1月10日、ロッテの重光オーナーは伊良部 を呼び出して、パドレスへのトレードを通告。伊良部は「約束していたヤンキースではない」と拒否した。1月13日、パドレスとロッテの業務提携を発表。その業務提携書の中に、伊良部の権利をすべてパドレスに「譲渡」することが含まれていた
※3 ルール
日米コミッショナーの取り決めで、1年間浪人すると、自由契約選手扱いとなり、どこのメジャーリーグ球団とも契約できることになっていた。メジャーリーグ選手会は、伊良部の主張を支持。旗色が悪くなったロッテとパドレスは、伊良部をヤンキースへと三角トレードして解決した
田崎;伊良部さんがそこまでメジャーリーグにこだわるのは、お父さんを捜しにアメリカ(※4) に行くためだという報道もありました。
伊良部: (驚いた表情で)誰がそんなことを言い出したんですか? それは事実ではないです。だって、ぼくはアメリカに行くまで、自分の本当の父親がアメリカ人ということを知らなかったですもの。
田崎;えっ?
伊良部:ヤンキースに入ってから……98年のキャンプのときに、球団から連絡があって、ぼくの父親だと名乗る人間が来たと。びっくりしましたよ、父親だって言うから。
田崎;会ったんですか?
伊良部:はい。それから、母親に確認したんです。そうしたら、そうだって。それまでは父親がアメリカにいるなんて、考えたことがないですよ。でも面白いですね、ぼくがどうしてもアメリカに行きたかった理由が、父親に会いたかったからなんて。
田崎;実のお父さんに会われてどんなふうに思われました?
伊良部:これといった感情はなかった。生みの親より育ての親みたいな。今も年に2回ほどは連絡を取り合ってますけど、それだけです。
※4 お父さんを捜しにアメリカ
ロバート・ホワイティングは『日出づる国の「奴隷野球」』の中で、伊良部がスポーツライターに「いつか、アメリカへ渡って有名な選手になりたい、そうすれば実の父親に会えるかもしれない」と明かしたと書いている。また夕刊紙にも同様の報道があった
田崎;伊良部さんが最初にメジャーリーグを意識したのはいつ頃ですか?
伊良部:中学生のときかな。テレビで、サチェル・ペイジ(※5) というピッチャーが亡くなったときの特番を見て度肝を抜かれました。長身のピッチャーで、鞭のようにしなる体。ものすごい細いんだけれど、全身を使って投げる。これはただ者ではないと。あんなふうに投げたいと思って、さんざん真似しました。ロッテに入ってからも最初の6年間ぐらいは、彼のように投げたいと思っていましたね。彼以外でも、ぼくと同じぐらいの上背のピッチャー(身長190cm)がどのように体を使うのかを研究しようとすると、日本にいないので、どうしてもメジャーのピッチャーになってしまうんです。グッデンとかクレメンス(※6)とか。
田崎;当時はメジャーリーグの映像はなかなか見られませんでした。どうやって研究したんですか?
伊良部:雑誌の分解写真を見て、どうやって投げているんだろうって、絶えずそんなことを考えていました。
田崎;その当時から、ヤンキースに行きたいと思っていた?
伊良部:そうですね。90年代半ばから、常にワールドチャンピオンを狙える、非常に強いチームでしたから。野球のユニフォームを着た人間ならば、ワールドチャンピオンのチームでやりたいと思うでしょ? それでぼくがヤンキースに入ったとき、グッデンとクレメンスの2人がいたんです。まさか、こんなところに自分が本当に来れるなんて……。
伊良部:さんは、158kmの速球を投げて、非常に目立つ存在でした。日本球界で最高のピッチャーの一人に数えられています。しかし、結果を見てみると、実は日米で106勝しかしていない。
伊良部:その程度のピッチャーですよ(笑)。クレメンスや(デービッド)ウェルズは、ぼくと同じような上背で球の速さも同じぐらい。でも彼らはそれぞれ300、200勝もしている。どうしてぼくがそうなれなかったかというと、答えは簡単。横の変化球がないんです。スライダーやカットボールがなかった。フォークやカーブという縦の変化だけだとある程度しか勝てないですよ。
田崎;スライダーは今や高校生でも投げますよね。
伊良部:もちろんぼくも投げ方は知ってますし、投げられます。ただ、スライダーを投げると、手首が傾く癖がついてしまって、次のストレートの球速が落ちてしまう。だから試合中は使えなかった。スライダー、シュート、ツーシームといった横の変化球を投げられるピッチャーはコンスタントに勝っていける。縦の変化だけで、長く勝ち星を積み重ねたピッチャーって野茂さんだけ。
田崎;158kmのストレートがあっても駄目ですか?
伊良部:1試合120球のうち、全力投球できるのは、せいぜい20、30球しかないんですよ。もし、体力がもって、全部158km投げられたとしても、プロのバッターには打たれます。緩急が大切ですから。球の速さよりも、球の出どころが見えないほうがずっと大切ですよ。
田崎;球の出どころ?
伊良部:ボールを投げるとき、バッターから腕が見えないほうがいいんです。出どころが見えれば、球筋は読めますから。ホークスのあのピッチャー……杉内(俊哉)なんてすごいですよね。(そこまでの球速でないのに)みんなバッターが振り遅れてますものね。勝ち負けに繋がらない速球はいらないんですよ。
※5 サチェル・ペイジ
1906年生まれ、野球史上最高のピッチャーの一人とされている黒人選手。ニグロ・リーグ時代、2500試合に登板して、2000勝したという伝説のピッチャー。82年6月8日没
※6 グッデンとかクレメンスとか
ドワイト・グッデン(64年生まれ)、ロジャー・クレメンス(62年生まれ)、共にヤンキースなどで活躍したメジャーリーグを代表するピッチャー。通算成績は、それぞれ194勝と354勝
田崎;ヤンキース、エクスポズ、レンジャーズ、そして阪神タイガースの一員として日本に戻りました。星野監督から声を掛けられたんですよね?
伊良部:その前の年、エコノミー症候群でリタイアして、半年間リハビリが必要だったんです。それなのによく呼んでくれたなぁと。
田崎;星野さんと面識は?
伊良部:なかったです。
田崎;阪神ファンだったんですか?
伊良部:育ったのが尼崎だったんでね、周りがそういう環境ですから。あの歌、「六甲おろし」もまた盛り上がるような歌じゃないですか。
田崎;帰国して戸惑いはありました?
伊良部:なんでこんなにボールが飛ぶんかなと。今年からはだいぶましになったんですか? 当時はすごかったですよ。打球が速くなるんです。ショートゴロを打たせたはずやのに、なんで三遊間抜けるのって。
田崎;阪神では、03年に13勝を挙げて、チームはリーグ優勝。そして05年に引退します。その後の活動については日本ではあまり知られていません。アメリカでうどん屋を経営していたんですよね?
伊良部:阪神のときは、家族をアメリカに置いて、単身赴任だったんですよ。引退後、こちら(ロサンゼルス)に戻ってきた。高校の同級生から、近くにおいしいうどん屋がないので一緒にやらないかと誘われたんです。ぼくは高校(尽誠学園)のとき、香川でおいしいうどんを食べているじゃないですか。それだったらいけるんじゃないかと。
田崎;立ち上げはいつですか?
伊良部:05年の9月。そして07年に土地のリース契約が切れたので、そこで閉めました。
田崎:その後、09年に独立リーグの選手として現役復帰しました。しかし、昨年2度目の引退。原因は?
伊良部:腱鞘炎です。手首を壊しました。原因はスライダーです。スライダーを投げなくてよかったんですね。昔から投げていたら、もっと早く壊れていたかもしれない。今も手首が痛むんです。朝起きて、布団をめくるだけでも痛いときがある。
田崎;最近は何をされてますか?
伊良部:何もしてませんよ。近所の子供に野球を教えるぐらい。あとはたまに、草野球に顔を出してます。
田崎;コーチや監督をやる気は?
伊良部:監督の器ではないことはわかっています。コーチ? 日本で雇ってくれるところがあるかなぁ(苦笑い)。三軍のピッチングコーチならばできるかな。
田崎;三軍のピッチングコーチ?
伊良部:二軍でも投げさせて貰えないピッチャーとか、3年も4年も二軍を教えるコーチ。一軍で調子を崩したピッチャーの面倒を見たり。メジャーでは巡回コーチと呼んでいて、ぼくもお世話になりました。
田崎;ヤンキース時代ですか?
伊良部:そうです。なぜそういうコーチが必要かというと、下手したらピッチングコーチって、2年おきぐらいに代わってしまうんです。前のコーチはこう言うていたのに、新しいコーチは全然違うことを教えると、パニクっちゃうんです。選手一人に対して教えるコーチが何人もいたら、良い結果は生み出さない。この選手はこのコーチに任せると決めて、長期間教えさせたほうがいい。
田崎;日本にはそうしたコーチはいないですね。
伊良部:ブルペンの横でコーヒーでも飲みながら、和やかな雰囲気で選手と話をして、みたいな感じがいいですね。迷っている選手とじっくり話をして、何に迷っているのか、ぼくが知っている範囲で答えたい。それでそのプレーヤーがよくなれば嬉しいですね。
田崎;また、現役に復帰する気はないんですか? 手首を治せばまだ投げられるんじゃないですか?
伊良部:フフフ、もう無理です。お腹いっぱい(笑)。
田崎;このまま日本に戻らず、アメリカに永住する予定ですか?
伊良部:家族がこちらの生活がいいと言っているんで。ぼくとしては日本に帰りたいです。英語も話せないし。もし話せたとしても日本がいいですね。日本が好きですから、テレビ番組も面白いし、四季もあるし。
田崎;どんな番組が好きなんですか?
伊良部:バラエティです。松本人志さんとか面白いじゃないですか?

伊良部さんに新事実!
1カ月前に離婚
「悲しすぎます」
2011.7.30
zakzak
米カリフォルニア州の自宅で首をつって死んでいるのが発見された伊良部秀輝さん=享年42、元ヤンキース、ロッテ、阪神など=の司法解剖が29日午前(日本時間30日)にも行われることになった。ロサンゼルス郡保安官事務所は、死因を自殺と断定しているが、詳しい死因や死亡推定時刻を特定する。
関係者によると伊良部さんは、約1カ月前に夫人と離婚していたとみられる。その後は独り暮らしで、数日間連絡が取れなくなったことを心配した知人が、自宅を訪れた際に遺体を発見した。発見されたのは27日午後4時だが、死後数日が経過していた可能性もある。
近所の住民は「とても落ち込んでいるように見えた。最近はあまり外出もしていなかったのではないか」と話している。遺体は家族が確認し、当局に安置されている。葬儀は近親者だけで行う予定。
寂しすぎる最期に、エクスポズ(現ナショナルズ)で同僚だった日本ハムの吉井理人投手コーチは「もうちょっと声をかけてあげられれば」と涙をこらえるのがやっと。
西武時代に名勝負を繰り広げた清原和博氏も「すごくすごくつらいです。悲しいです。苦しいです。悲しすぎます」とコメントしている。
一方で、伊良部さんは野球への情熱だけは失わず、8月にドジャースタジアムで東日本大震災のチャリティー試合を企画していたという。
日本で指導者になるのが夢で、阪神時代指揮官だった星野仙一監督(64)=現楽天=にも相談したことがあった。1年前、深夜に泣きながら「テストを受けさせてほしい。指導者もやりたい」と30分も懇願したという。
豪快に見えて実は繊細だったと関係者が声を揃える伊良部さん。息を引き取ったあと、たった独りでさぞ寂しかったことだろう。

星野監督
「指導者をやりたかったんだろうな」
2011.7.30
sankei
繊細なやつだった-。楽天・星野仙一監督(64)は29日、伊良部秀輝さん(享年42)の突然の死に悲しみを募らせた。阪神監督時代の2003年に日本球界に復帰させ、同年にリーグ優勝。その早すぎる死に、闘将も肩を落とした。
かつての教え子の訃報は、遠征先の福岡の宿舎で早朝に知らされた。
「打者に向かってガンガン攻める投手だった。かわす投球なんか見せたことがなかったよ。それが野球の基本なんや」
だからこそ、信じられなかった。「本当に自殺なのか?」
この日のロッテ戦前、かつて伊良部さんが活躍したマウンドを見つめながらポツリと漏らした。
02年オフに獲得。03年には13勝を挙げ、阪神を18年ぶりのリーグ優勝に導いた。今でも記憶にあるのは、日本シリーズだ。第2戦でダイエー打線に3回5失点でKOされたが、第6戦も先発させた。「あの年は伊良部がいなかったら優勝はできなかった。功労者を使うのは当たり前やないか」。批判を受けたが今も後悔していない。
「オレもそうだったけど、投手は虚勢を張って生きている。本当は繊細なやつ。野球の話をしだしたら止まらなかった」
09年に四国・九州アイランドリーグに挑戦するときも報告があったが、最後に電話で話したのは昨年夏だという。
「指導者をやりたかったんだろうな。日米で学んだ自分の財産をどこかに伝えたい、というのがあったんじゃないか」世間の豪快なイメージとは違う、教え子の心を理解していた星野監督。その早すぎる死を悼んだ。

阪神
伊良部氏しのび
喪章つけてプレー
2011.7.30
sankei
2003年の阪神のリーグ優勝に貢献した伊良部秀輝氏をしのび、試合前に黙祷(もくとう)がささげられた。ともにプレーしたメンバーも多く、選手、首脳陣は一様に沈痛な面持ちを浮かべた。
阪神は喪章をつけてプレー。沼沢球団本部長は「若くして惜しい。一緒にやった仲間が多いし、ファンも覚えている」と話した。(甲子園)
伊良部秀輝
国籍 日本
出身地 兵庫県尼崎市(沖縄県宮古島市生まれ)
生年月日 1969年5月5日
没年月日 2011年7月27日(満42歳没)
身長 193cm
体重 108kg
(wikipedia)
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