★(写真つき)【【伝説のヒーロー】】:タフマン伊東が8年ぶりに復活!!
2011年 06月 15日



タフマン伊東が
8年ぶりに復活!!
2011.6.14
newpost
30周年を迎えたヤクルトの栄養ドリンク「タフマン」。“実は誰もがみんなタフマン=心がタフな人である”というコンセプトのもとおなじみの「あんたがたタフマン♪」のサウンドロゴとともにあの男が帰ってきた。普通の人々の人生が詰まった喜劇に取り組み続けた73歳、伊東四朗が演じるタフマン伊東がCMを振り返る。
「当時、住んでいた吉祥寺の駅のそばでタフマンのCM撮影をやったことがありましてね。女房がたまたま通りがかって、人だかりをのぞきこんだら、派手な衣装を着た私と目が合っちゃった。家に戻ったら、お父さんも大変ねっていわれました(笑い)」(伊東氏)
「タフマン」のCMに伊東氏が登場するようになったのは1985年のこと。以来、2003年まで20年近くコミカルで強烈な個性を放つキャラクターを演じてきた。あれから8年、今年タフマンはリニューアルし、伊東氏のCMが復活する。
製造元のヤクルトによる調査の結果、顧客の抱くタフマンのイメージは、地球の内部からわきあがるエネルギーを視覚化した初代のタフマンマーク、「あんたがたタフマン♪」のサウンドロゴ、そして伊東四朗氏、の3つに集約されることが判明。これらの復活が決まった。
ヤクルト本社業務部企画調査課・小室伸之氏は語る。「ちょうどタフマンが30周年を迎えるということもあり、大号令のもとにプロジェクトチームが結成されました。タフマンというと肉体的なタフさを想起されると思うのですが、今こういう時期だからこそ、日本人は心のタフさを誰もが持ち合わせている、という価値観を共有できればと考えています」
「青天の霹靂というか。私の中でタフマンっていうのは50代までと思っていたからね」今回のCM出演依頼には驚いたというが、「私が50代でこのCMをやってる頃、『広告批評』の天野祐吉さんがいってくれたんですよ。伊東四朗がこういう奇抜なCMを還暦過ぎてもやってたら褒めるって。それが70過ぎて、もうすぐ喜寿でやってるんだから、うんと褒めてほしいな」と笑う。
破天荒なベンジャミン伊東をはじめ、『おしん』『伊東家の食卓』のお父さんなど数々の記憶に残る役柄を演じてきた伊東氏は話を続ける。
「喜劇の中にすべてがあると思っているんです。シリアスなものも、奇抜なものもすべてある。変な人も出てくるし、普通の人も出てくる。だからこそ喜劇って成り立つんです。開演前はいつも今日のお客さんはどんな人たちだろうかと舞台の袖から見ています。いまも毎日が勝負ですから」 (週刊ポスト2011年6月24日号)


伊東四朗
(いとうしろう)
本名 伊藤 輝男
生年月日 1937年6月15日(73歳)
出身地 東京都台東区
血液型 O型
師匠 石井均一座
出身 浅草の軽演劇
トリオ名 てんぷくトリオ(相方三波伸介 (初代) 戸塚睦夫)
事務所 オルテ企画
活動時期 1958年~
人物
てんぷくトリオ
東京府下谷区竹町(現在の台東区台東)にて、服地商の子として生まれる。戦時中は静岡県掛川市に疎開していた。東京都立市ヶ谷商業高等学校卒業後は就職を希望し数多くの面接を受けるも、目付きが悪い、人相が悪いことを理由に不採用が続いた(過去のTV出演時の本人コメントより)。1958年、早稲田大学生協職員だった当時、石井均一座の舞台を見に足繁く通っていたため、一座の役者が伊東の顔を憶えるほどになっていた。そんな経緯もあり、石井一座の役者から「君も(舞台で)やってみないか?」と誘われ、石井一座に参加。同期には財津一郎らがいた。
最初の芸名は、師匠の石井均に「いとうにしよう」と言われたことから「伊藤証(いとうしょう)」であったが、ポスターなどに名前が連なる時に、名前が一文字なため、先輩より目立ってしまっていけないということで、「伊東四朗」と改名した。石井一座は、浅草の松竹演芸場や新宿の新宿松竹文化演芸場を拠点に人気となる。新宿時代、一座の戸塚睦夫が元々軽演劇の仲間であった三波伸介と夜間キャバレーの営業に出ていたが、三波が大阪に行ってしまったために、一座の伊東が三波の代役で営業に参加(この頃伊東は、三波伸介という芸名を使うことがあった)。
のちに三波が東京に戻ったため、三人で営業用のトリオを結成。石井一座解散とともに正式にてんぷくトリオ(当初「ぐうたらトリオ」)を旗揚げした。軽演劇の流れを汲むコントで、舞台・テレビで徐々に人気となり、三波のギャグ「びっくりしたなぁ、もぅ」が大当たりして、茶の間の人気お笑いグループとしての地位を確立した。
1970年頃、『笑点』の札幌公演において、当時司会の前田武彦が天候不順で来られなくなり、急遽代理として三波伸介が司会をしたことがあった(その時の司会が好評で、三波は後に正式な司会に抜擢)。その際、座布団運びの代理は伊東が務め、伊東が正式な座布団運びになっていた可能性もあったというエピソードがある。
1973年に戸塚睦夫が42歳の若さで逝去し、てんぷくトリオの活動に困難が生じるも、三波と2人で「てんぷく」の名を守った。1972年から毎週日曜日に、三波らと共に出演していたNHKの『お笑いオンステージ』内「てんぷく笑劇場」での活躍が代表的である。
電線マン
1975年以降、三波の意向で「てんぷく」名での活動を抑制した頃、小松政夫との共演が話題になり、テレビ番組『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』での親子コントや「電線音頭」でのベンジャミン伊東(この名前の由来は、イギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテンから)、『笑って笑って60分』での「小松の親分さん」などのネタで人気に火がついた。小松と2人で生み出したギャグがいくつもあるが、正月によく流れる琴による演奏の『春の海』を口で表現する「つん、つくつくつくつん。つん、つくつくつくつん。ひやーひんひらひらりー、べんべらべんべらべんべらべんべらべん」は伊東のオリジナルである。
また、「ずん」や「ニン」、「どーかひとつ」といったギャグも有名になった。「ベンジャミン伊東」としてのスタイルは、藤田まことら古くからのコメディアン仲間から「あいつはバカになったのか!?」と驚嘆されるほどのインパクトがあり、小林信彦からは大いに絶賛された。それまで「てんぷくトリオ」のサブ的役割だった伊東が、にわかに芸能界で存在感を示し始め、1979年には『ザ・チャンス!』(TBS系)の3代目司会者に抜擢された。
「ベンジャミン伊東」のキャラクター案は、伊東が自身の威圧的な顔にコンプレックスを持っていたため、「怖い顔でも面白い人はいないのか?」と考えた時に、「サーカスの団長」が思い浮かんだ事が発端となっている。
喜劇役者として
1982年12月8日、盟友・三波伸介が52歳の若さで急死、伊東は訃報を聞いた際、三波が安置されている病院に向かい、報道陣の問いかけに「(三波の遺体を触った際に)まだ温かいんですよ。温かいもんだから死んだ気がしなくて…」とショックを受け、葬儀でも号泣した。「てんぷくトリオ」は早くも伊東だけとなってしまう。翌1983年、NHK連続テレビ小説『おしん』の父親役に抜擢され、同ドラマが大ヒット。
以後、活動の中心を俳優業に変え、シリアスな演技もできる実力派としての評価を得て、活躍の場を大きく広げた。また、俳優業のほか、バラエティ番組の司会も数多く担当する。数多くのドラマで父親役をやってきた事や、『伊東家の食卓』などのイメージで、他の芸能人からは「お父さん」と呼ばれる事も多い。
自らを「喜劇役者」と位置づけており、いつまでもそうあり続けたいと語る。「三波も戸塚も死んだが、てんぷくトリオは解散したものではない」とも述べ、コメディへのこだわりも見せる。かつての喜劇役者仲間であり、親しい友人でもあった東八郎、関敬六、また渥美清や由利徹といった、浅草喜劇出身の役者たちがこの世を去った今、『浅草喜劇の伝統を後代へ引き継ぎたい』という思いと、『彼らの分まで、体が動く限り現役で頑張りたい』との思いが年々強くなっている。
1997年に、後輩の三宅裕司、小倉久寛らと共演したオムニバスコントの舞台『いい加減にしてみました』(2002年・2010年にも上演)が好評だった流れで、今ではあまり見られない典型的な喜劇・軽演劇の舞台を再現してみようと、2004年、試みで『伊東四朗一座 〜旗揚げ解散公演』(タイトルからも分かるように最初で最後の予定であった)を上演した。
この公演は当日券を求める客があふれるほどの大好評となり、多くのリクエストを受けて、翌2005年に『伊東四朗一座 〜急遽再結成公演〜』を上演、こちらも好評を博した。その後、2006年・2007年には伊東が参加しなかったため、「熱海五郎一座」と銘打って活動する。2008年には再び伊東が加わり「伊東四朗一座」として公演を行う。
2009年には「伊東四朗一座・熱海五郎一座合同公演」が上演された。現在は年1回のペースで活動。伊東四朗一座の舞台公演作品はDVD化もされている。このほかにも舞台公演は精力的に行っている。角野卓造、松金よね子、佐藤B作・あめくみちこ夫妻らとともに「西荻窪エリアでお酒を飲みながら語らう会」(西荻の会)を結成し、実際に西荻窪エリアで酒を飲みながら語らっていたが、ある時会の外から「このメンバーで芝居を」との提案を受けたことから2011年、本多劇場にて西荻の会による介護コメディー『ロング・ロスト・フレンド』を公演することになった。
(wikipedia)

最新のトリビア記事