★(写真・昭和9年記録映像つき)「77年前の恩返し」 函館から三陸へ漁船228隻寄贈
2011年 06月 06日
函館から三陸へ
漁船228隻寄贈
2011.6.4
asahi
津波で多くの船を失った三陸へ、228隻の中古船が贈られる。北海道函館市の港から岩手県の久慈(くじ)港に向け、4日午後、台船に載せられて出発した。思いがけない応援に驚く久慈市漁協に、函館市は「77年前の恩返し」と説明している。
函館市東部にある椴法華(とどほっけ)漁港。乗組員らが出港前、小型漁船が台船にしっかり固定されているか最終確認した。
台船には「がんばれ東北!! がんばれ久慈!!」の横断幕。漁船集めに尽力した市内5漁協のうちの一つ「南かやべ漁協」の小川正毅専務理事は「漁師にとって船は命。同じ漁師として、何かしたいという思いが集まった。みんなの思いを込めて贈りたいです」と話した。
久慈市漁協は漁船617隻の93%を津波で失った。3月末、船で救援物資を久慈港へ届けた函館市から「何か出来ることはないか」と問われ、岩手県北部の同漁協は「6月にはウニの漁期を迎えるのに船がなくて出られない」と苦境を伝えた。ほどなく函館市から「中古の船を譲りたい」と返事が来た。「昭和9(1934)年の函館大火の恩返しです」
大火で2800人余りの死者・行方不明者が出た際、函館には久慈など岩手各地から義援金が贈られたという。「そんな昔の話、こちらで覚えている人はほとんどいないのに。ありがたい」と久慈市漁協の嵯峨松男参事は驚きながらも喜んだ。
函館市の上戸慶一総務部長は「コンブの種苗を出したり、イカ釣り船が寄ったり、昔ながらの縁もある」と付け加える。市内の5漁協に不要な船はないかと声をかけた。ウニやアワビの漁に使える1トン未満、長さ6~7メートルの中古船が集まった。漁師の無償提供。積み重ねて台船に並べ、運送費用は久慈側の負担で2隻の台船がそれぞれ2往復して運ぶ。
久慈市漁協は船だけでなく水産加工場などの施設を失い、津波被害は70億円に上るという。「早く立ち直り、被災した他の漁業者を支援する側に回りたい」と、届いた船は被災した県内のほかの漁協にも分けることにしている。
函館大火(はこだてたいか)
1934年(昭和9年)3月21日に北海道函館市で発生した火災。死者2166名、焼損棟数11105棟を数える大惨事となった。
函館は江戸時代から栄えた港町であったが、しばしば大火に襲われ、市内の至る場所が火災の被害に遭っており、中でも1934年の火災は最大規模となった。
当日、北海道付近を発達中の低気圧が通過し、函館市内は最大瞬間風速39mに及ぶ強風に見舞われていた。早春の日が落ちて間もない午後6時53分頃、市域のほぼ南端に位置する住吉町で1軒の木造住宅が強風によって半壊し、室内に吹き込んだ風で囲炉裏の火が吹き散らされ、瞬く間に燃え広がった。
さらに強風による電線の短絡も重なり、木造家屋が密集する市街地20箇所以上で次々と延焼したため、手が付けられない状態となった。
時間の経過とともに風向きは南から南西、そしへ西風へと時計回りに変っていったため火流もそれに従い向きを変え、最終的には市街地の1/3が焼失する規模となった。
死者の中には、橋が焼失した亀田川を渡ろうとして、あるいは市域東側の大森浜へ避難したところ、炎と激浪の挟み撃ちになって逃げ場を失い溺死した者(917名)
また溺死しないまでも凍死した者(217名)もいた。20世紀前半の災害であるが、現在も函館市民の記憶に留められる災害であり、2010年現在も火災発生日には慰霊祭が営まれている。(wikipedia)
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